気づきに気づけた話。

気づきって言葉を聞いたときに知ってるようで、知りませんでした(今でも微妙)。
みなさんはどうですか?
私はひらめきのような、そんな感覚がしっくりきました。あっ!みたいなインスピレーションといくか。このOSHO禅タロットと出会い、気づきを得るカードというワードから、もう一度"気づき"について考えてみました。

忘れがちな自分のこと

気づくって行為って、自分以外の人に感じることが多くありませんか?
それは客観的に見れているから、起きている変化に気づくのかもしれません。

それが自分自身になると、どうでしょうか。私はなかなか気づくことができません。性格なのか日本社会で揉まれて、この形に形成されたのか、自分を俯瞰して見る余裕がないんだろうなと思います。
結局自分のことってわかってるようで、わかっていない。知ってるようで、知っていない。
でも自分自身の深層心理にダイブして、それをOSHO禅タロットが教えてくれるのを、きっかけ自分自身と対話していこうと思いました。

気づくの遅すぎ問題

我慢ってしんどいですよね。この言葉を見るだけで、重そうって感じます。(笑)
生きている中でストレスを抱える場面はあると思います。人によってストレスを感じるところは違うとと思いますけど、ストレスは悲しいかな、生きている以上付きまとうもの。特に人に関わることにストレスを感じることが私は多く感じます。
・仕事しない上司
・なぜか牽制しあっている職場の雰囲気
・マナーを守れない人など。
それらに毎回悩みながらも、声を上げるより、自分の中で押し殺して感情が過ぎ去るのを待つ人が多いのかなと感じています。
実際、私もそうですし。それで気づけば、自分への負担に変わり、しんどーいってなります。それも気づくのが遅いんですよね。自分のことを知っているようで、知らないから体に異常が出て、やっと気づくを繰り返しています。

生きるのに必死だから、必要な話

人っていろんな悩みを抱えながら、生きていると思うんですよ。荷物を下ろしては、また担いでの繰り返しで、慣れていく。でもそれは人の性だと思うし、そこに喜怒哀楽を感じたり、人生の楽しみがあるんだぁと思います。
ただ生きているのに必死で、自分自身との対話ってできていないと思うんですよ。私はOSHO禅タロットと出逢って、自分自身と対話をする大事さに気づきました。自分自身も何か必死で生きているからこそ、自分自身にさえ言えてないことってあると思うんです。だから私はOSHO禅タロットを使って、自身との対話する時間を持って進んでいけば、もっと人のことを考えて行動できるんじゃないかなっと思っています。当たるとか外れるかではなく、そこに出たカードがなぜ出たのか。それを静かに考えるだけで、自分自身に寄り添えているのかなと感じます。